抱え続けていた思想的矛盾
放っておけば脳内は苦痛と苦悩な常に苛まれることになっていて、その系譜を探った時、人は常に良い状態と比較して悪い状態を忌避してしまい、そこから導き出される処世術がペシミズムと呼ばれるものになるのではないかと思う。
世界は混沌に満ちていて、混沌は欲望から成る。世の中の理性に期待するのも欲望にほかならない。意志と表層としての世界にはそんな都合のいい助け舟などないのだから、何にも期待せず、ただこの世界から早く脱出しなければと思うことになる。
これを究極にやると反出生主義とかに行き着いていくのだけど、どうもそれでは歯切れが悪いというか、それで「ああそうか、じゃあ生まれなければよかったのか」と手放しに考えられるのであれば、れはそれでいいのかもしれんが、なにか期待したい感覚というのもそれはそれであるのであって、その感覚を否定はしたくないという気持ちがある。
系譜を辿っていくと実はペシミズムに辿り着くのがニーチェのニヒリズムではないだろうか。一度はショーペンハウアーの思想に熱狂的になったニーチェが、その道を通らなかったとは思えない。
私が抱えていた思想的矛盾の答えはここにあるのではないかと思う。散々ぱらニーチェとショーペンハウアーの間で揺れていると言っていた私は、そもそも揺れているのではなく、ニヒリズムの深層にペシミズムを感じていたからではなかっただろうか。
あらゆる生気を吸い取るほどの苦痛がある。その時思い出されるのは常に良かった時のことで、比較するくらいならあらゆることが無かったなら、と思う。逆に良かったことを求めるならその時悪いこととの比較がなされるはずで、そういう意味で、いいことの再来を求めるとき同時に悪いことの再来も求めることになる。
そういう風にして、世の中のあらゆる事象は――特に自らに関することについては――繋がっていて、どっちからアプローチを取るかということで、ニヒリズムとペシミズムは表裏一体に行き来するのである。
あまねく認識の高い人は常に悲観を帯びている。ショーペンハウアーに出会いその思想に打たれ熱狂した二十代の時のニーチェもそうであっただろう。だが世の中を悲観的に見、挙句の果てに生まれを嘆くということに反発心が湧かないのでは、反理性主義的であるせいもあるだろうが、実存に対してあまりにも悲観的すぎる。厭世的で、それ以上に厭理性的なのだ。果たして本当にそうであって、それであっていいのだろうか。
ヘーゲルの理性主義を肯定しようというのではない、この世は全く救いようがないということを認識した上で、どうしてこの世を肯定してあげたらいいのだろうということと、さらにどうして私を肯定してあげたらいいのだろうと思うのである。
ニヒリズムはペシミズムの系譜で、ニーチェによる積極的ニヒリズムはペシミズムの系譜でありながらその反論……ではなく、その上で! ということを説いているのではないだろうか。
思想的矛盾、と錯誤を起こしてしまうのも無理はない。ペシミズム的世界観は確かにあるだろう。でもそのままじゃ死ぬに死ねない、というのが私の思想であった。