天啓観測

Hi zombies!

挨拶をします、こんにちは

 口当たりのよいこと、というか、普遍的な快・不快の観念をあえて言語化して、これはこうでございますよねと皆さまの前に提示すると、ある程度の共感とか評価を頂くところではあるけれど、少し翻して誰にでも当てはまるような批判をすると、ぴたっとその波が止むらしいということが最近分かった。

 つまり私は不快なことに何か特別な思索家だと考えられているわけではなくて、煙草ってのは人前で吸うもんじゃありませんわよねとごく一般的で誰もが何万回とやってる話をこの言葉遣いで経験に則してやれと思われているわけです。

 耳の痛い話はされたくないというのは分かるけれど、そもそも私の話が自分に刺さっている感覚というのは聞く側が自分勝手に解釈し感じうる事だし、私は絶対に誰か特別な人を指してあれこれ言っている訳でもないから、褒め言葉にしても貶めにしても、別段意識があるわけではない。しかしどうも言語的な批判というのはそれが自分に当てはまれば納得できないし、当てはまらなければ共感するという現象が働くらしい。

 私の思考がいつ何処に至っても矛盾がないとは言えないが、いつでも言っている通り、その人のあらゆる要素はその人を形作る全てであるから、私の批判から飛び出ていい批判はひとつもないし、思考というのは突き詰めれば一度は倒錯が起こるものであって、手触りのいい言葉だけが常に手元にあるわけではない。

 あえて沢山のことを言いたいのだけれど、例えば私は恋愛にせよ友情にせよ、浅ましい承認が前提となっている人間関係の全てが無意味で薄気味悪いと思っているが、これも所詮言葉遣いの話であって、私がちょっと「上辺だけの友人なんて、いらないよね」と言えば納得され、色を付けて「自らの無為を他人で埋め合わせようとしている」と言えば足蹴にされるわけである。「愛のないセックスなんて仕方ないよ」と言えば理解されるが「性行為なんか機能的で、最中には白い壁が見えるだけだ」と言えば理解されない。

 ただこれは何となく分からないでもない。結局は言葉の清潔感であって、人は多少顔がよければ適当なことを言っても許されるが、禿げている上に鼻のよじれる体臭を撒き散らす中年の50代ではまともな事を言っても愛されない。私は性行為のことを「行為」と呼ぶべきだし、友人というかけがえのない(身の毛のよだつ形容詞だが)人物のことを否定してはならないのである。それはいかにも清潔感がなく、だから納得感がないから。まあ物事を単なる字面でしか捉えられないというのなら、それ自体浅ましいことではある。

 またどうもエゴイスティックなのも受けない。これも理由は判然としていて、私が私に対してエゴイスティックであるということは、誰かにとっての不利益であるからだ。とはいえゾンビたち(あなたたちのことですよ)は自らの矛盾に気が付けないので、「自由」を唱え、そういう文学やエッセイに共感しておきながら、その瞳で私から目を逸らす。可愛くないから、あまりにも。

 私は先に多かれ少なかれ清潔感があれば意見に見向きされると言ったが、残念ながらこんな文章、マイメロが書いていても無視される。到底ピンクの頭巾を被った兎とは思えないインターネットのどこぞの人間が、キーボードに向かってつらつらとこんなことを書いていても見向きされんのは当然のことであって――当然のことであるが、実はそうである内は私だけが独善的にやれるということであり、それならやはり人は一生その1メートル四方の、百足の這う灰色の箱の中でゾンビらしく呻き声を上げていてくれと願わしく思うわけですよ、ねえ。