天啓観測

Hi zombies!

幸福を犯す

 

「生まれた時点で幸せじゃん。しかも日本だよ。どんな親のところに生まれたって、こうやってスマホとかもあるし、インターネットもある。アフリカの人たちなんて、お風呂なんか入れないし、トイレだって2000人で共用してるんだよ」

 

これを知人に言われたが、どうもその人から出る言葉らしからぬ感じだったので問い詰めてみたら(別に問い詰めるというほど厳しくは聞いてないが)受け売りだった。YouTuberの受け売りである。

 

まあそのYouTuberの言葉が心に響いて、自分の言葉として使おうとしたのはいいだろう。相手が悪かった。私はむしろこういう理路で説かれる幸福論のおかげで、幸福が実際に虚妄だということを信じられる。

 

もし幸せという観念が絶対的なもので、究極の価値を持つのだとしたら、どこぞの国のどういう状況なんてものは引き合いに出されなくていい。つまり、不幸を引き合いにしなければ幸福が成り立たないということを、この論理は明らかにしてしまっているというわけだ。「幸せ」とはなんと脆かろう。涙が出るね。

 

そのアフリカ人(観念上の)が日本人を見て「ああはなりたくないね」と思う可能性。置かれた場所で咲きなさいとはいうが、置かれた場所を他より優れてると思わざるを得ないのが私たち人類の適応力という特質である。だから咲きなさいという奴が出てくるのだ。だがやはり多少考えをめぐらせれば。つまり、少しでも疑念の心があれば、やはり親はいつだってハズレだし生まれた国だってハズレだとも。

 

虐待する親? 子供を殴るなんてクソ喰らえ。

虐待しない親? 子供に虐待しないなんてその子の人間強度を下げるだけだ。

 

インフラが整った国はやりがいがないし、整ってない国は住み心地が悪い。スマートフォンがあると常日頃から他人の監視下に置かれるし、スマートフォンがあるのに「デジタルデトックス」が流行る昨今である。じゃあ最初からなかったらよかったのでは。いやそれじゃ不便だ。困ったね、やはり幸福を認めようとする論理は脆くて不甲斐ない。家族愛、郷土愛、隣人愛。どれもそこから逃げ出せない人が考えた逃げられないが故の幸福の形である。不幸を享受すれば幸福なんてものに頼らなくてよくなるのに。

 

幸せなんてものはないんです。あるとしたら、それは「どれだけ不幸でないか」を測る「範囲」の名称です。存在なしで無いは無いと言ったが、この点においては偽である。不幸なしで幸福はない。幸福は、不幸の無から成り立つ。いやそしたら、存在なしで無いは無いというのも、この点においては真であるか。「不」が記号として使われない唯一の状態。幸福は、不幸がなければない。