天啓観測

Hi zombies!

結果論者は死に、私は永遠に生き続ける。

 突然ですけど永劫回帰って知ってます? 世界はまーーったく同じことを何度も何度も繰り返してるしこれからも繰り返すっていう途方もない思想なんですけど、一応これを提唱したニーチェの理屈としては、分子やエネルギーは絶えず動き続けているのでいずれ全く同じ状態になるから、ってのがあるらしいんですけど、別にそれは重要じゃないんですよ。

 これは神を殺した我々の、新たなひとつの宗教的な規範になるってもんで、その内容としては、簡単に言えば究極に究極のポジティブシンキングをしよう!ってやつなんですよ。

 そもそも考えてみて欲しいんですけど、この世が全く同じことを繰り返すとしたら皆さんどうします?

 私はこの問いの答えを見つける前に必要なことを全て知ってしまっていたので、果たして何も知らなかったらどう考えただろうって思うんですけどね、私は、全く同じことを繰り返すんであれば、できる限り2回目3回目の時に全く同じことを経験してもいいと思えるようなことを、この人生においてしなければ、って考えるわけです。

 ハーゲンダッツのアイスは毎日でも食べたいと、それを人生全体でやりたいってことです。

 だって、例えばですけど、じゃあ毎日同じ時間に起きて同じことをして、とりあえずそれさえしとけばなんとか生きてけるってことを繰り返して、そこそこかそれ以下の及第点的な人生を歩んで死んで、また全く同じ人生を過ごすって、それは酷なことだと思いませんか。

 私はこの歳になって学問を志して、親には早く働いて安定しなさいって言われましたけど、早く働いて安定することの、その安定の価値を考えるわけですよ。で、私は最終的に「いや、私は別に生きてたいわけじゃない」って言って実家を出てくるわけですけど、根本にその『安定』をどうにか忌避したいっていう気持ちがあったからなんですよね。

 いや、安定それ自体が悪いことなのではなくて、安定が目標になった途端、人は死んだも同然では、と思うわけです。私はそんな安定の人生を二度とは繰り返したくありませんからね。だって、ただ生きるために生きるためのお金を稼ぐためのただ同じような毎日って、また繰り返したいと思えます? ニーチェはそういう人を『末人』って呼びましたけど、事実ほんとにそうなったら終わりなんです。

 ただでさえ不毛に繰り返してるのに、さらに2回も3回も、絶対いやじゃん。精神的に向上心のないやつは馬鹿だって、夏目漱石も言ってますけど。


 でも何度も繰り返すからじゃあ次の人生で後悔しないようにがんばりましょって言っても、運命が付きまとうんですよ。人なんて生まれた時から多かれ少なかれ障害を抱えているのであって、それが存在する限りとてもじゃないが繰り返したいだなんて思えないって思ってしまうと思うんですよ。

 重要なのは、それをどう乗り越えるかを、三日三晩寝ずに考え通せるかどうかですよ。私なんか誰かから見たら大したことないかもしれませんけど、そこそこクソみたいな収入の親の元に生まれて、その親は中卒で、暴力も振るうし不倫もするし、ろくでもないんですよ。だからグレたこともあるし、結局こうしてこの歳になってやっと大学入ったし、もうろくでもないんですよ。

 こうした時に、じゃあ何を考えるかって、私はこれがあったからこそ、この困難があったからこそその分の経験値が私の糧になると思うんです。

 現実、私はいま塾講師としてバイトをして、こんな風になってもやり直せるんだよと生徒に教えられるんですよ。生徒がそれを聞いてやる気を出してくれるのなら、それはもう、一度私の人生は誰かに必要とされたことにもなるし、けして無駄ではなくなったわけじゃないですか。それって少なくとも自分の運命を愛する理由になるんじゃないですかね。

 けして後悔も先悔もない人生を辿っていけると思うし、事実、私はこの現状であって明日死んだとしても、また同じ人生がやりたい。そして明日生きた時も、明日死んだとしても、と同じことが言いたい。


 もちろんやり直したいこともありますよ。でも仮に逆にもう一回これを経験したい!という幸福があったのだとしたら、やり直したいはずの苦痛でさえそれは私の人生のうちの永続的ななにかであって、けして避けて通ってはいけないとそう思いませんか。

 もし私はこんな障害を抱えてるからと諦めてしまって、仮に安定を目的にしてしまったら、それはその時点で私は人の死に近いと思う。我々は本能で生きる動物では無いのだから、思考し障害をプラスに捉え直すことができるはずではと思いませんか。

 『どうせ死ぬのだから』と『どうせこう生まれてきたのだから』は全くの“同義”です。

 何度でも言いますよ。『どうせ死ぬのだから』と『どうせこう生まれてきたのだから』は全くの“同義”なんですよ。それはやはり結果論であって、消極的な救いようもないニヒリズムじゃないですか。

 『どうせ死ぬ』し『どうせこう生まれてきた』ことを、果たしてどう捉えるのか、どう必要としてどう愛するのか、これを追求するのがてめえの生で、それに辿り着く頃にはもう一度繰り返してもいいと思える。そうあるべきでは、と思うのです。


 そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか? おお、わたしの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは一切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。一切の諸事物は、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているのだ、――
 ――かつてそなたたちが、一度あった何事かの再来を欲したとすれば、かつてそなたたちが、「おまえはわたしの気に入る。幸福よ! 刹那よ! 瞬間よ!」と語ったとすれば、そなたたちは一切が帰ってくることを欲したことになるのだ!
  ――そなたら、永遠的な者たちよ、そういう世界を永遠に、常に愛するがよい。そして、苦痛に対しても、そなたたちは語るがよい、過ぎ去れ、しかし帰ってこい! と。というのは、一切の快楽は――永遠を欲するからだ!(『ツァラトゥストラ』、「酔歌)