天啓観測

Hi zombies!

改稿版「少しずつ死んでいく」

「おねがい……まだ、まだ。あと一日だけ。明日だけでいいから……」
「みんなそう言うんだよ。でも、この世には決め事ってのがあってネ。記憶の準備も大変なんだヨ」
「おねがい……おねがい……」
「はァ……」

 何も見えない真っ暗闇の中で、私はただ喘ぐように懇願していた。姿は見えないのに、そこに確かに存在しているのが、あらゆる感覚で伝わる、その天使か悪魔かも分からない存在に、私は今までにないくらいに縋った。治療費で金が底を尽きそうになった時も、二度と美味しいご飯を食べられないと言われた時も、こんなには打ちひしがれなかった。

 空虚な闇でその様相は望めないのに、それがうんざりしていることだけは、なんとなく感じられる。

 なぜ? なぜ今日なのか?

 自分がもう死ぬんだということは、ずっと前から分かっていた。そう言われていたし、みな覚悟が決まっていた。死んでもない私の葬式の準備に、両親は追われていた。けれどそれはまだ一ヶ月とか二ヶ月先の話だったはずだった。

 だからこそ、思い出にと、最後の、一日だけの、外出許可を出してもらったのに。

 この病院で知り合った、大好きな彼と出かけられるはずだったのに。

 なぜ、今日なのか。

 嗚咽を漏らして泣き続ける私に、闇の中の存在はまた溜息を吐いた。

「わかった」
「え……?」
「一日だけダ。でも世の決まり事を破ることは出来ない。君を無理に生かすことになる」
「なんでもいいの、明日さえ生きられればそれで……!」
「君は明日を生きられる。ケド、その代償に――」

 少しずつ、死んでいく。

……

 はっと目覚める。

 レースのカーテンが眩く遠い青空を背景に揺れていて、磨かれた純白のリネンが目に入る。身体を起こして調子を確かめるけれど、昨夜よりもずっと優れている感じがした。病室特有の真っ白な風景をもう一度見て、逆に、昨晩の暗闇を思い出した。

 あれは、夢だったのだろうか。

 昨日の夜、私は、文字通り死ぬほど咳をして、必死でナースコールに手を伸ばしていたのを覚えている。その直後に、投げ出されるようにしてあの暗闇に転がり込んだのだ。あれを信じるのだとしたら、私は今日、少しずつ死んでいくらしい。

 けれど。

 それらの思考は、ノックと共に彼が顔を出したことで吹き飛んでいった。

 彼を外で待たせ、母が置いていってくれた着替えを身につける。大丈夫だ。立てるし、歩けるし、鏡で見た顔色も悪くない。身体はきちんと言うことを聞く。外は晴れているし、気温もちょうどいい。こんな素敵な日を前にして死んでいたら、きっと悪霊にでもなってここに化けて出ただろう。無念を叫び続ける亡霊になっていたはずだ。

 でも、そうはならなかった!

 水色のワンピースに身を包み、小さなポシェットを提げ、髪の毛にさっとくしを通して、私は彼の元へ駆け寄った。そう、駆け寄ることさえできるのだ、今日の絶好調な私は! 彼は私を見るなりぱっと表情を輝かせて、可愛い、可愛いと言ってくれる。それに対して私は、嬉しい、嬉しいと答えるのだった。

 幸せを色にしたらきっと、いま見てる全部の色になるんだ。幸福だった。本当に。まだどこにも行ってはいないのに。幸せすぎて、これはこれで死んでしまいそう。

 最初に、病院の近くにある、花壇のたくさんな公園に来た。遊具よりも花畑が多い可愛らしい公園だ。彼と背の高い花々の間を歩いていると、彼は一輪の花を手に取り、私に「いい匂いだよ」と差し出してくれた。私はその瞬間にはと気がついた。

 少しずつ死んでいくとは、こういうことか。    
 夢ではなかったのだ。
 花の香りが分からなかった。

 でも、大したことではない。香ることはできなくても、それがいい香りであることが分かっているから。彼がいい匂いだというのなら、そうなのだろう。

 彼はその後、私を公園内にあるカフェに連れて行ってくれた。医者に控えるように言われていた好物――塩のかかったポテトと、砂糖が多く散りばめられたドーナツを頼んで、一緒にカフェラテも頼んだ。注文してお金を払おうとすると、彼が代わりに出してくれた。

「お金が無いって、言ってなかった?」
「仕事を見つけたんだ。だから大丈夫」

 私はもう死ぬ。だからお金を持っていても仕方がないので今日使い切ってしまいたかったけれど、彼の計らいが嬉しかったから、素直に従った。

 注文した食べ物が届いて、私は口にそれを運んだ。そして思わず涙がこぼれた。

 ううん、なんとなく分かってはいた。

 けれど口に入れたものが無味だと、何を食べても一緒だなと思った。

 次は? 次は何が''死ぬ''のだろうか。

 ――耳だった。

 ああ、もう彼の声が聞こえなくなってしまった。それを素直に言うと、彼は哀しそうに微笑んで、私の頭を撫でた。口の動きで分かる。彼は「いいんだよ」と許してくれたのだ。泣きそうになったけれど泣かなかった。まだ今日は終わっていないから。

 目も見えなくなった。

 彼はそれに気がついたのか、私に優しくキスをする。穏やかに手を引いて、私の先を行ってくれる。車に乗せられた。タクシーだろうか。彼は車を持っていなかったから、多分そうだ。今度はどこへ行くのだろう? 洟も舌も耳も目も死んでしまった私をどこに連れて行ってくれるのだろうか?

「……っ、……!」

 まだ病院には帰りたくないよ。それを必死で伝えようとすると、彼は力強く私の手を握ってくれた。男の人の手は大きいんだとその時に思い知った。男の人にしては小柄だと思っていたけれど、彼もしっかりと頼りがいのある男の人なのだ。

 やがてタクシーを降りて、少し暑いところに来た。カラオケ? またカフェ? 色々考えたけれど、どちらでもなかった。彼が急に抱きついてきたから、ああ――と。ここがどこだか理解した。

 ぎゅーっと強い抱擁。まるで、ずーっとこうすることを欲していたかのような、縋るような抱擁。彼も私と同じ気持ちでいてくれたんだ。

 逞しい男の身体に包まれて、私の身体はいやらしく反応しているようだった。柔らかい物の上に押し倒されて、彼に口を奪われて、色んなところを触られて、こんな、目も見えない女でよければ、と。私はすべてを彼に捧げた。どうせ死ぬのだ。ここで殺してくれたっていい。幸せの暗闇で死ねるなら、彼の腕の中で死ぬことができるなら、いままでの全部、病気になったことも全部、この日のためだったんだと思って逝くことができる。

 いつしか馴染みのある病院に戻ってきているのを、私は背中に伝わるベッドの感覚で気が付いた。私はベッドに横になっている。周りにたくさん人がいる気がするけれど、誰がいるのか、何を言っているのか、何も分からなかった。

 誰でもいいや。

 おやすみ。

……

「……楽しかったかい」
「ああ……ここ。今度は本当に死ぬのね」
「そうだネ。今度こそ君は死ぬ。……人間は死ぬ前に、自分の人生をもう一度見ることができる。君は見ていく?」
「いいえ、人生がどうだったかはいいの。今日のことだけ見せて」
「ァー。今日のコト。本当に見たい?」
「当たり前じゃない」
「アマりオススメしないけどネ」
「私が見たいって言ってるんだから……っ」
「あーハイハイ分かっタ分かッた。…………後悔してもボクのことを恨むのはやめてくれよ。ボクのせいじゃないカラね」

 目の前に、ぱっと眩しい光が現れる。それはだんだんと形を作っていって、今日の私を映し始めた。ああ、幸せそうな私が映っている。ああ、そう、ここで匂いが分からなくなったんだ。ここで味が……ここで耳が。彼はこの時、こんな風に言ってくれたんだ。ここで目が見えなくなる。ベンチに座らされて、やがてタクシーが来た。でも、様子がおかしい。彼は私の手を引っ張って車に乗せたけど、彼は車に乗ろうとしない。彼はタクシーから伸びてくる手から、封筒か何かを手渡されて去っていく。どこに行くの? 乗らないの? タクシーが出てしまう。やがて、やがてタクシーは低俗なホテルの前で止まって、私は見知らぬ男に手を引かれてそこに入っていく。そこからの映像は見ていられなかった。知らない男に抱きつかれ、嬉しそうに頬を緩める私、知らない男に縋って、気持ちよさそうに喘ぐ私。ああ……ああ、そう……。

 ああ――。