天啓観測

Hi zombies!

思想的矛盾、解説(できてたらいいな)

 

 

 ニーチェに対する私の気持ちというのはもはや茶化しが入り込む隙もないくらいには崇拝というものに近く、それも単に思想に共感ができるからという水準のものではないのは、誇張抜きに人生を救われたからに他ならない。

 

 この感覚というのは伝わりにくいかもしれないけど、とかく10代の終わり、20代の初めの時の私というのは、目の前にあること一切を受け入れられず、それが自分のまいた種であるということもさることながら、人の目とか社会とか、そういうものに打ちひしがれて、死ぬか死ぬか、あるいはぎりぎりで生きるかというところを彷徨っている人だった。

 

 そんな時に書店でふと手に取ったのがニーチェの本で、そこに書いてあることがどれだけ私の救いになったかというのは、それはもはや茶化すことでしか伝えられないくらいだったと思う。

 

 生きてきて、人は誰でも信念とか許せることとか許せないこととか、その人なりの哲学とか文学とかがあるわけだけれども、その本に書いてあるニーチェの思想は、私の内部にあった感覚の全部を、全く思いもよらない別の表現で、信じられないほど明瞭に説明してくれていた。

 

 寝起きの浮腫んだ顔で鏡を見たら、その向こう側にバッチバチにメイクをした自分がいた、みたいな。そういう感覚に近い。

 

 とにかく、それがあったから今生きているのだし、あらゆるコンプレックスに対して向かい合って、人から楽しそうと言われるくらいの人間になることができているわけであり、そこに至るほどの救いをニーチェの思想から受け取ったのだから、私がニーチェをどれだけ崇拝して、どれだけ自分に重ねているかということはここまで書いてやっと伝わると思う。

 

 だから彼の思想は私の思想であるし、そうでなければとも思っている。ここが一つ重要なポイントです。

 

 

 さて、私と同い歳だった時のニーチェにも、私のニーチェとの出会いと同じような出会いがあって、それがショーペンハウアーだったらしい。20代初めのニーチェは書店でショーペンハウアーの作品をたまたま手に取り、打ちひしがれて、買って帰って読みふけって、それこそ大きな鏡を見たと著作の中で書いていた。ので、私としてはそのショーペンハウアーを知らざるを得ないということになったのはなんとなく分かってもらえると思う。

 

 読んで、ショーペンハウアー思想の説得力といったらなんであろうと感じた。私はそこにもまた自分の中のなにか説明できない苦痛とか苦悩を解消してくれる光明を感じた。と言ったところで、まずはショーペンハウアーの思想について簡単に、特に私に関わる部分について説明しなければならない。

 

 ショーペンハウアーの時代の哲学界隈では、理性主義というのがめちゃくちゃ流行っていた。デカルト→カント→ヘーゲルの順に組み立てられてきた新しい考え方で、ヘーゲルの時に完全に弱点が無くなったように見えた。これも平たく説明すると、この世の混沌は人間が歴史を通じて理性を獲得していくことで無くなっていく、善とか悪とか、そういうことは歴史を紡いでいくことで完全に説明されるようになって、人間は本当の善に辿り着くことができる、という考え方なんですが、まあ反論はすぐに思い付くところだな、という感覚がありませんか?

 

 我々の現代的な感覚では、歴史には誤謬が付き物だということや、善悪の基準は国、文化、民族、個々人にとって千差万別だということが分かっていて、そういう、人間の理性というのを盲信して、最後に最高の世界を作りましょう、というのは、まさしくその考え方こそが争いを生んできたし、そういう危険性を孕んでいるのだと知っている。

 

 ショーペンハウアーはそうは言いませんでしたが、少なくともその理性に対する信仰にはめちゃくちゃ懐疑的だった。いや、そうじゃなくないか?  と。そこで「意志と表層としての世界」という言葉が出てくるのだけど、この説明が結構難しくて、例えばものすごく簡単に言うと(これはものすごく簡単に言ってますよ)、風邪を引かないために手を洗うけれども、どんなに正しい風邪予防をしていても風邪を引くことは無限にある、ということを想像して欲しいんですよ。この結局風邪を引いちゃうということを、ショーペンハウアーは「意志」と言いました。

 

 彼の文脈ではこれはほとんど「神」ということになるのですが、当時の哲学界で「神」という言葉を使うのはあまりにダサすぎたので、このどうしようもない世界の作用を「意志」と名付け、その結果として生じているこの世界をその「意志」の「表層」と呼んだのです。

 

 つまり、この世界にはあらゆるどうしようもねえこと、というのが存在していて、そういうどうしようもねえこととか、個々人の欲望とかあまねくものがせめぎ合うことで世の中は混沌としている。だから世の中はクソだし救いようもないし、なんならそれを理性でどうこうできるわけないじゃん、という文脈で「反理性主義」を行うわけで、そんな世界なんかどうしようもないというのを「悲観主義」とか「厭世主義」とか、総称して「ペシミズム」と言うわけです。

 

 これに一定の説得力を感じてしまうのは、やはり苦痛とか苦悩とかが現に我々のうちに存在しているからにほかならない。ショーペンハウアーは欲望を捨てれば苦痛もない、という仏教的な解脱に近い考え方をしていて、もちろん、ヘーゲルのように理性を盲信するのも欲望の一つに他ならない。そのような、欲望もなく苦痛もない状態をむしろ幸福と呼んだ。そういう限りなく精力的でありながらそれ以上に陰鬱とした状態、断念、否定、諦念、そういうことを説いているのである。そういう考え方がすんなり入ってきてしまう素地を、我々はこの時代によく持っている。

 

 部分的な話をすると、たとえば人間関係に悩むのならば人間関係など持たなければ良い。そもお前に中身がないから人に頼らざるを得なくて、究極に自立すれば友人なんかいらんはずだぞ、みたいな。一人でいたって無限に楽しい。無限に楽しめないのはお前の問題だ、みたいな。ああそうかそう考えるとなんでも自由だな、という気づきみたいなのがショーペンハウアーの考え方にあって、その土台にはやはり「この世には結局『意志』があるから」というものがある。

 

 何度も言うが、こういう考えは受け入れやすい。なぜなら誰も苦痛や苦悩など経験したくはないし、しかし一方でどう避けようとしても世の中は究極的に性質が悪いからだ。そんな世界の中で「なぜ生きるのか」「なぜ苦しまなければならないのか」と考え、答えを出すことは難しい。その答えを簡単に見つけられる人はこの世の大きな苦しみにも耐えることができる人なのではないか、とも思いません? だから、そういう答えを見つけられない人にとって、苦しみのみを与えてくる世の中に呪詛を吐くような思想を受け入れることは容易で、容易だし、わたしも、おそらくはニーチェもそうであった。そして、それを受け入れた後に考えたことも同じだと思う。果たしてそれでいいのか。と。

 

 このペシミズムは、反出生主義に最終行き着くのでは、という話をした。これもまた受け入れやすい思想ではないか。この世は如何ともし難い、ならばそうか、産まれなければ――あるいは産まなければいいのだ、と。厭世の終着地点はこうして実存に対して投げやりになる。厭世主義も、その一つの終着地である反出生主義も、その立場に立ったからといってなんなのか、という疑問を抱えていると私は思う。世を厭うのも、生を厭うのも、思想として抱え込むのはやはり受け入れやすいが、そうして手放しに受け入れることでその瞬間なにを得たのか。諦念のみを得て、諦念のみを抱え込んで、諦念のみを信仰しているのか、と。その薄気味悪さとそこで思考を終えてしまうことに対して、どうしても反論の口を抑えられないのである。

 

 そこでだが、私はニーチェの思想を、「実存における究極の理性主義」と呼んでもいいと思っている。彼の思想はニヒリズムと呼ばれていて、この上で説明したペシミズムと「この世には一切意味がない」とするニヒリズムに、果たしてなんの違いがあるのかということをまず考えなければならないのだが、厭世主義はまさしく苦しみだけの世を厭っているのに対し、虚無主義は単に「世に、生に、そして喜びや苦しみにすら意味はない」ということを、“知っている”にすぎない。知って、そしてその次にどうするのかということを、厭うことを教えていないから残しているのだ。

 

 「実存における究極の理性主義」とはどういうことか。ニーチェもまたショーペンハウアーの潮流の中で、理性主義に対する巨大な反論をしていたが、その対象は主に上で説明したヘーゲルに対するものであったと言ってもいい。私がここで使っている理性主義とはそういう意味でないというのは伝わってくれていると思うが、ニーチェ永劫回帰、権力への意志というのは、この世の不条理に対する理性を獲得するという点で、私は一種の個人の実存における理性主義ではないかと言っているのだ。

 

 ニヒリズムとペシミズムは触れ合っていると考えると前の記事で書いた。ここにまず立つというところから始まる。その理由の詳細は前の記事でも説明しているし、この後にも書くが、ペシミズムの傍に一度立ち、その反論としてのニヒリズムという構図があるのではないかということは、上述した。その上で私はニヒリズムの系譜にペシミズムがあってもおかしくはないと言ったわけだが、ではニーチェニヒリズムはここからどう独自の道を辿るのか。どう終着地点としての諦念を信仰することを避けるのか、ということになる。

 

 ニヒリズムを徹底すること、それこそニーチェの偉大な思想だった。つまり、「なぜ生きるのか」「なぜ苦しまなければならないのか」という命題さえ徹底的に排除するのである。この世に意味は全くない。永劫回帰によって特にこの思想は骨付けが為される。この世界はただ同じところを、犬が尻尾を追いかけるように無意味にぐるぐると回っている。犬が尻尾を追いかけるのはいずれ終わるがこれは終わらない。そんな世界の流れにあって、我々はどうしたらいいのか。

 

 世界が無限に繰り返されるその潮流の中で、自分がそう欲することが無限に行われるようにせよ、というのが倫理的な思想としての永劫回帰の実践的な考え方にほかならない。永遠に回帰する自分の生を究極的に欲し、欲すべきものにする。それがニーチェの「権力への意志」なのだ。その潮流の中では、世の中を厭っている時間も、出生を厭っている時間もなく、また欲されるものでもなんでもないのであるということがなんとなく伝わらないだろうか。

 

 その上で、私は何を思想的矛盾と言っていたのか。ここまで分かっていながら、自分の中にあるニーチェの思想とショーペンハウアーの思想のどこが相反していたのかということが問題になる。

 

 まず、ニヒリズムはその根にペシミズムを持っている。物事の自分における善し悪しに対し、どうアプローチするのかによって、この二つの思想は表裏一体に行き来すると書いた。

 反論ではなくペシミズム的世界観を想定した上で、どのように生きるのかということもニーチェは言っている。繰り返される世界の中でただ諦念し、そして欲望を捨てて果実の絞り滓のような幸福を享受することは”無限の中で求められるべきではない”。もっと、もっと! ということである。

 

 思想的矛盾というのは、結局のところ私の中における錯誤に他ならなかったというのが私の最終的な考えだった。ペシミズムは何度も言うように「受け入れやすい」。その上でその苦痛を避けるためにあらゆるものがなければ良かったのにと思うのも「簡単」なのだ。私は私の弱い部分で、その容易な思想に逃げていた。あらゆることが鎖で繋がっていて、それに然りということ、そういうことのできる力への意志を持つ意志がとかく足りていなかったのだ。

 

 同じことをさらに平たく言うとこうなる。ニーチェの思想は強いエネルギーが必要となる思想で、ショーペンハウアーの思想は少ないエネルギーで十分な思想だったということである。だから私は十分に永劫回帰を意志することはできず、ショーペンハウアーの思想に逃げることが多々あった。苦痛から逃れるために、あらゆることがなかったならと願った。

 

 「あらゆることがなかったなら」。これが私にとっていかに持ちたくない思考であるかということが伝わってくれるだろうか。これはニーチェの思想の真逆の考え方なのだ。ではショーペンハウアーの思想に逃げればよかったではないかと考えると思う。だがここで思い出して欲しいのだ。

 

 私にとってニーチェは私の命を救った、崇拝の対象なのだ。

だから彼の思想は私の思想であるし、そうでなければとも思っている。

 だから逃げたくないし、これからも追い続けるのだといえば伝わるだろうか。

 

 この私のブレを私は思想的矛盾と呼んでいたのだった。

 

 覚書のつもりで書いた記事があまりにも人に伝わりにくいものとなっていたので、これに至るまでの私の思考と、それに必要な知識と共に解説しました。

ayaneldk.hatenablog.com