天啓観測

Hi zombies!

My Magic!のあとがきみたいなものとあらゆる所感

・My Magic!の完結記念にその話をしよう。菜月はこちらに気が付いたから、あの作品の後ろに私の言葉があったら変だろうと思って、恒例にしていた後書きを書かなかった。ので、ここでその代わりにしたいと思います。とりわけてネタバレはしないので、まだ追い付けてない人も読んでくださって構わないし、でもまあ読んでから読む方が乙かもしれません。

・私にとって、二作目の長編作品の完結です。天上の黒百合に次いだ作品がMy Magic!でした。着想したのはコンビニで働いているときに、アイスの補充をしながら知らないメロディを頭の中で歌っていて、その最中だった気がします。魔法のアイディアが浮かんだというか、魔法が存在するとしたらどんなだろう、と思って、作中に出てくる設定のようにしました。

・つまり、現象があって理屈があるのが科学で、理屈があって現象があるのが魔法、というそういう設定です。これは作中でエイミーが可愛く説明してくれてるので、あえて深掘りはしないけれども、私にはまずその設定が浮かびました。そしてその設定が浮かんだまま、数年放置しました。

・書き始めたのは去年の三月。公募用に純文学を書いている真っ最中だった。よく絵描きがイラストの途中で別の落書きをしたみたいに言うじゃないですか、それみたいなつもりでした。結局大作になったけど。

・私は全然プロットが書けなくて、プロットを書こうとするとそのまま小説になってしまいます。で、その細部を持って一人で抱えるのが難しいので、矛盾とかを恐れずに小説として書き始めるわけです。先の展開とかある程度想定しているところに向かって、思い浮かんでるシーンとシーンを繋いで、あとはもう即興劇をやっているにすぎません。

・台詞とか地の文に感嘆詞が多いのがその証拠になるかもしれません。「ああ、」とか「菜月さん、」とか、そのあとになにか言うために一旦間を置く感じ。キャラクターがよく他のキャラクターの名前を呼ぶのは、その間に言うことを考えているからだと思います。

・キャラクターはまじで思い通りに動いてくれない。予想もしてなかったことを言う。一部分書き終わったあとに読んでみて、なにこの小説、私は知らない……となることがよくあります。

・1と10が前提としてあるでしょ。で、頭の中にはそれらと3と6だけ思い付いてる。2,4,5,7,8,9はどうする?となると、私は「書きながら考えている」わけです。書いているとひらめくというか、書かないとひらめかないので、とりあえず一文字なんかいれないといけない。これはびっくりですが、シモーネですら書くまで思い浮かんでなかった。キャラクターの設定表とかひとつもない。それは作れよと思うけど。格好のつく言い方をすると「頭の中にある」コメカミトントンですが、格好のつかない言い方をするとまじでなにも考えてません。人の考察を読んだ時に「たしかに」と思わされます。そしてプロットもふつうちゃんと書くべきだ。

・「作者の人そんなに考えてないと思うよ」はある程度事実である程度事実ではありません。作者の人は、無意識に考えている。それを他人が言語化してくれて、なるほどねと思う。少なくとも私の場合はそうです。まあ、あえて小説という形をとっているわけだから、さもありなんですね。人の人格とか性格についてただ考えたいだけなら、なんかもうそういう論文でも書いたらいいわけだし。○○はこれこれこういう意見を持っていて、これこれこういう思想で、だからこういう行動をして……と書いてあってもつまらんでしょ、それは、小説として。

・菜月は私の鬱と不眠を受け継ぎました。前も言ったけど、菜月から衝動を抜いたら姫になって、菜月から共感を抜いたらシモーネになる、そしてその集合の外側にエイミーがいる、そういう感じがあります。そういう三角関係+アルファを中心に書いていました。と、いまとなっては考えることができます。それが想定したものではなかったのは、「キャラクター設定表がない」で説明が付くと思います。結果としてそうなっただけ。

・話が逸れたな。菜月が私の鬱と不眠を受け継いだということについて書きたい。私は本当に最初は、きらっきらの魔法少女ものが書きたかった。菜月のために用意していたせりふはついぞ使われませんでした。あの子は作者の予想を全部無視しています。まあ強い女の子だからね。

・自己投影とかではない。自伝でもないのに自己投影するのは恥ずかしい。ウェブにはそういう小説がありふれているけれども、でも菜月と私はかなり違う。私は菜月みたいになりたいと思わないし、菜月も同様だと思います。菜月は私を恨んでいる。でもその時私に書けるヒロインは、そういう姿でしか有り得ませんでした。菜月の憂鬱を言語化するのに、かなり私の憂鬱が手助けになった、というそれだけの話な気がします。菜月が語る自殺への衝動は、もちろん私が抱いているものでした。同じように感じている人が同じように共感してくれることも望んでいたし、自殺なんて考えたこともない読者が「そういうものかな」と思ってくれたらいいなとも思っていました。

・器用故に自分の精神を犠牲にしているキャラクターは、私がよく書くキャラクターかもしれません。まあ、これはなんかシンパシー的なやつなんでしょう。「自分より幸せなキャラクターは書けない」と常々思います。自分より頭のいいキャラは書けないとよく言われますが、これは嘘です。私はリリーより頭が悪い。

・My Magic!は、二部の途中から明らかに読者が減り始めました。これも当然のことです。ここは私が「狂え」と自分自身に命令していた。即興劇しかできないなら、それを全力でやれと、その時の自分に全て託しました。舞台と道具は揃っていたから。結果として「百合」の要素が減って、たぶんそれを楽しみにしてくれてた人が読むのをやめたんでしょう。でも重要なのは、その人たちが百合だけは楽しんでくれたということです。

・結果として私には、というかMMには、ファンタジーか、あるいは文学が好きな読者さんだけが残りました。最後まで応援してくれるのがやっぱり一番嬉しいけれど、途中まで応援してくれたのもやっぱり、それはそれで嬉しいです。

・だからね、ほんとは、あんまりタグを付けたくないんですよ。でも読んでもらうためには仕方がない。私は別にMMを百合作品とか、ファンタジーとか、そういう器に閉じ込めたいわけではなかったから。

・だって、店頭に並んでいる本には、タグなんか付いてないでしょ。それなのにあらすじとタイトルと装丁で手を取って、読むじゃん。ふつうはそうあるべきかな、と思うわけです。私は読者の方々に一定の嘘を吐いていた。百合はたしかにあったけれども、それがテーマではなかった。My Magic!は、当たり前のように女の子と女の子が身体を重ね合わせるけど、「女同士なんて」という言葉は一切出ないし、そこはテーマではありません。

・おこがましい解釈ではありますが、私はこの作品をツァラトゥストラの小説版だと思っています。ニーチェの思想とか、ヴェイユの思想とか、際限なく詰め込みました。体系は難しいし、かといってシオランのように断章もできませんからね。私には長編が向いていたわけです。小説の形で思想を書くというのは、まあそんなに苦労しなかった。物語の中にはたくさん選択肢があって、なにを選ぶかは本人たちに任せていました。

・これは私の小説を読んでくださる方にはそれなりに驚かれることが多いのですが、私はまるでキャラクターのことを理解していません。こっちが解釈をすることすらあります。この時この子はなんでこういう事をしたんですか? と聞かれて、言い淀むのが常です。特に昨年から書いている公募の作品には友人からそういう指摘がありましたね。ただ私っぽさは出ている、という感想も貰いました。一部の文章は美星の声で再生されると。

・自分のこともろくに理解していないのに、その自分から出てくるキャラクターのことなど理解できるものではないのかも。