天啓観測

Hi zombies!

褒めに甘えていいのですか


 褒められるのが苦手、という感じがあります。たしかにそういう感覚がありました。でも最近気づいたんですけど、褒められること自体はやっぱりめちゃくちゃ嬉しいのですよ。絵がうまいね、とか、文章がうまいね、とか、すごく嬉しいんですけど、なんか同時にもやっとした違和感があって、その正体について考えていたんですけど、たぶん、その褒めに「甘えていいのか分からない」のですよね。


 自己肯定感なるものが馬鹿みたいに低い! というのは自覚するところで間違いなくて、それ故に自分の能力を人に認めてもらいたい! という承認欲求もあります。自己肯定感というのは種がなくては育たず、「お前がお前を認めてやるんやで」みたいな言説が無意味だというのはエリクソン以降常識なんですけど、なんも知らん根性論者はいまだに言ってきます。でも無理なんですよ。まずは誰かに褒められなきゃ、自分のことは褒めらんない。つまり、私が私を認めてやるには他人の称賛が必要で、それが無ければさいあく壊れてしまうこともあると。


 それが分かっていてなお、私は誰かに褒められることに対して、それに甘えることをできません。自分で自分を認めてやることができないなら、私を認めてくれる誰かに頼ることでしか自己肯定感を高めることはできません。しかしその人のところに行ったとて、私は「いや、全くそんなことないからな」と逆張りをします。この逆張り逆張りとしての逆張りというより、実際に「いや、全くそんなことないからな」と考えているのです。褒められても素直に受け取れないし、受け取らないということになります。


 私が人を褒めるときに、同じように褒められた言葉をそのまま否定する人がやはりたくさんいて、「素直に受け止めればいいのにな」と思うのですけど、それ自体が難しいことなのもやっぱり分かります。私がそうだからね。だからとにかく相手が否定しようとなんだろうと私はこう思ってるぞ、としつこいくらいに言うようにしている。それ自体には意味があるので。


 私は思ったことしか言わないし、とかくお世辞ができないので「私の褒めは嘘偽りない褒めだ」と押し付けることができるのですが、人からの褒めまで手放しに受け取ることは私にはできません。なぜなら人はすぐにお世辞を言うから。挨拶のように褒め合うから。その重みを証明できないから。時には恋愛作法としての褒めだから。時には下心が隠れているから。だから「甘えていいのか分からない」のです。


 手放しにその褒めを喜べるような信頼できる人がいて、常に認めてもらいに「行く」ことができたらいい、良いと分かっている。自己評価の低さを覆すほどの褒め言葉を受け取ることができたらいい。良いと分かっているけれども、でも、犬みたいに尻尾振って同じとこぐるぐる回る真似はできないのである。



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