天啓観測

Hi zombies!

衝突・衝突・衝突・衝突


 私は実際に道を外れたので、学校を尻目に通り過ぎて悪友の家に遊びに行くのが普通であった。父親は長距離運転手で一週間に一度帰ってくるか来ないかで、母親は朝から夕方までパートであった。学費も支払えないほどには金が無かったために両親は働き詰めであり、親の口癖は「金が無くても幸せ」であったが、月末には必ずと言っていいほど家の中の空気は張り詰めていて、両親は度々衝突していた。


 四人目に弟ができた時、そして五人目に妹ができた時にさえ、両親は働くことを辞めることは当然にできなかった。私は教師から呼び出されては「給食費を払え」と怒鳴られ、なぜ親に言わずに私に言うのかとひたすら反抗していた。教師の前で給食をぶちまけ、ご飯を食べる資格が無いなりの誠実な反抗をしたりもした。私にとって給食の時間と言うのは、唯一学校に行けてクラスメイトと関わることのできる大切な時間だった。というのも、両親は「どうせ学校に行かないのなら子供の面倒を見てくれ」と言って、私に赤ん坊の世話を要求していたからだ。


 10代である私に、両親は数ヶ月の赤子を預けた。ミルクを作り、オムツを替え、なぜ泣くのか分からない赤子に私も泣きそうになりながら世話を続けていた。「どうせ学校に行かないのだから」は、ある意味正論であったから、私はそうなのだろうと納得し、その役割をしていた。母は中卒であったし、勉学の価値など知りもしなかったから「子供の世話ができる方が将来役に立つんだから」と、一見正しそうなことを言っていたが、それは母親の決めることではなかった。私は当時その通りなんだろうと信じていたが、10代にできる程度の子供の世話など大人になってからでもできたし、青春という幻想を打ち壊される程の理由ではなかったと今になって思う。母親のそういう詭弁に、私はいつも騙されていた。何より私は利口であったから。


 昼に休憩で一度母親が帰ってくるタイミングで家を出て、給食だけを食べに行く。私にはその時間しか学校にいることができないのに、その時間を使って教諭陣は私にありとあらゆる説教を試みた。通学バッグを二階から投げてドブにゴールインさせた時は気持ちよかった。私の色んな気持ちの象徴が詰まった反抗方法だった。例えば、学校嫌いとか、教師嫌いとか、叱られるためだけに通うのならこんなバッグ要らんわ、みたいな。知人が教師を殴って鑑別所に入ったので、それだけはしなかった。


 先述したように、私は母親の詭弁に騙されていたから、たまにいる良心の教師の言葉にさえ反抗した。「家で何してるの?」と聞いた教師にありのまま答え、「そんなの親がやればいいのにな」と言ってくれたことに対して、私は「それができたら苦労はしないし、何より勉学よりも役に立つことだから」というようなことを思った。10:0で教師側に旗が立つ程の正論にさえ私は耳を傾けられなかった。


 学校というコミュニティでやんちゃをする生徒に関する質的研究の論文を大学教諭に借りて読んだことがある。彼らは結局のところ「親の価値観」で行動していて、それに学校の方針が合わないからぶつかるのだと。大抵の親は、あえて学校に反抗しろ、勉強なんか意味が無いとは言わない。それ以上にやるべき事がある、とも言わない。だから迎合できる。私は常識への間違った反論に基づいて行動し、だからといってそのセーフティネットに両親がなつてくれるわけではなく、「俺は昔こんなことをした」と言ったその口で私の悪事を怒鳴りつけた。


 学校に行くより大切なことがある、と言いながら、私が自主的に、つまり親の指図抜きに学校をサボればしこたま絞られた。前にも書いたが、どれだけの痛みに耐えられるかが私の反抗の限界だったのだ。


 色んな後悔があると共に、10代の私に、それに対して何ができたのかと尋ねても、恐らくは何も出来なかった。私の人生は根本から道を踏み外しており、今更踏み外していることになんとも思わないし、思想的には、それを肯定するのが正しいのだと思う。文字通り、勉学より大切なことがあったのだと思うしかない。なにより、思うことが出来る。ただ、勘違いして欲しくないのは、それは結果として一つだけの選択肢を選び続けた私に対する肯定であって、選択肢を奪い続けた両親に対する肯定ではない。私は私の主観において然りと言うことはできるが、だからといって関連する全てにそうできるわけではない。


 親は、私が踏み外した道からゆっくりと戻ろうとしてるところを見て、それを自分の功績だと称えている。私の教育が良かったから、子供は自分で勉強して大学に受かったのだと。


 10代という人生の通路に、いまだに幻想が残る。あの時、普通に生徒ができていたらと今でも思う。世界を滅ぼすとしたら私だと思いませんか?