天啓観測

Hi zombies!

みんながウィル・スミスを話題にしなくなって何日経った?

 ウィル・スミスの平手打ちが私たちに圧倒的な問題提起を爆発させたのは、ひとえに「知的な暴力に対する原始的暴力」が許されるかどうか、という点にあり、そしてやはりこれについて答えが出せないから、ということにある。

 答えが明瞭な事件に対して、人は語る必要がない。不明瞭だから話題として大きくなったし、ああだこうだ言う人がたくさん現れたわけである。

「まさか暴力なんて許されてたまるか」という、私たちが幼い頃から培ってきた倫理観と、では「知的な横暴に対してどう振る舞えばよいのだ」という反骨精神が、このしゃかりきな議論を引き起こしたし、事件として格好の的となったわけである。

 そうしてこういう、不正同士の倫理と倫理の対決は、往々にして決着が付かないし、付いてたまるかとも思う。これは道徳の戦争であって、和平のない戦争である。

 私のスタンスを申し上げるとするなら、これは実に簡単なものだったと思う。つまり、ウィル・スミスは殴る権利があったし、例の司会者は殴られる権利があった。いや、権利というよりは義務というのが近いかもしれない。権利というのは「あそこでなにもせず口を噤むこと」だ。それは義務ではない。

 私がこの議論で我慢ならなかったのは、決着が付いてしまったように思われ始めた瞬間である。つまり、「この件に決着が付かないのは、アメリカと日本の間に文化的な差異があって、どうやら仕方がないから」というような記事が流行って、みんながそこに落ち着こうとした瞬間である。私はその瞬間に、全員地獄へ堕ちろと思った。

「文化的な差異」だと? まさか道徳の結末がこんなに単純な理路で収まろうとするなんて思ってもいなかったし、そんなことで納得するなら最初からお前らは問題になんかするなよ、と思った。心の底から思った。そういう文化的差異を埋めようとするのが、私たちの道徳という目的ではなかったのか。事情の異なる他者を集めて、それで上手いこと共同体を作っていこうというのが、倫理じゃないのか。そうじゃないならなんなんだ。

 黒人だ白人だなどの歴史的影響なんか知ったことではない。それはそれ、これはこれだ。それはそれ、これはこれだし、しかも、この「文化的差異」が話題になった途端、みんながみんな刀を鞘に納めたのが、私にはまるで不可思議だった。

 事実あったとしよう。たとえば本当にそういう歴史的差異があったとして、日米間には埋まらない価値観があったとしよう。しかし、それがあったところで、当初の議題である「知的な暴力に対する原始的暴力が許されるかどうか」の答えには全く至っていないではないか。なぜそこでやめたのか。納得して頷いて帰っていったのか。言論だなんだといって、彼らは所詮パトカーと救急車が集まっているのを見つけて寄ってきたゴミみたいな野次馬だったんだ。  そんなことなら最初から議論の振りをするな。中途半端なところで決着も付いていないのに付いた感じになった途端どうでもよくなるくらいならなにも言うなよ。