天啓観測

Hi zombies!

ありふれた「誤読」のことを「慣用読み」というのは、文化として良い。

 ここのところ暖かかったので、結構な薄着で出てしまったのですが、その日はやたら気温が下がって寒く、道の真ん中で凍えてしまったところを、近所の人たちがドライヤーを持ち寄って暖めてくれ、事なきを得ましたが、「機械で暖めるとは何事だ」と老人に怒られ、その身で暖められてしまったため、不快でした。

 大学が週100で対面授業となったため(週600はオンラインです)久しぶりに本校の地を踏んだのですが、大学生は「金の話」と「女の話」と「だりいの話」しかしておらず、その会話レパートリーの少なさと、その内容の浅ましさと、それで笑える精神の渇きに辟易とし、泣きながらそのまま仕事に行ったら、塾の生徒が進学先の制服を着てきて可愛かったので「ファンサか?」と言いましたが、私はもはやこの世にはいませんでした。算数的な話が、苦手で。

 猫には決してなれないが、カバにも決してなることはないと考えることでコンプレックスを押し殺していましたが、猫にもコンプレックスがあり、カバにも優越感があることを、時に思い出すと、ではその真ん中に位置することと(とりあえずは)した私のその判断をどう扱うかということになります。そもそも私がカバでないなどと誰が決めたのか。

 ショパンのピアノ協奏曲第一番と、ラフマニノフの幻想的小品集第三番にある気の狂ったピアノの戦慄(旋律)に指が踊り、先の方へと飛んでいくのを見ていれば、そうか精神は肉体に、肉体は精神に縛られているが、そうでありたくは無いのだということに気付きはしないか。私はしない。何を書いているのかも、よく分かっていない。

 小路によく忘れられて子供の小さな靴が落ちていますが、これには記憶があるし、その瞬間を見たこともあります。子供は何かと大袈裟にアピールをするので、実際に何かアクシデントが起きても親は「はいはい、ほらゆくよ」と相手にしないことが往々あり、靴を落とした一大事に(靴を落とすことがいかなることか大人は知っている)気付かない。狼少年的な話ではあるけれど、狼少年の大きな問題は、子供が嘘をつき続けたそのことよりも、信じ切れなかった大人たちにあると私はよく思います。

 靴でいえば小学生の頃、朝に濡れた靴で帰るのが不快で、雨の降る帰り道にわざわざ裸足で帰ったことがあります。道に危ないものが落ちてないか折々確認しながら歩くのですが、地に落ちひしゃげた紫陽花をわざわざ踏んで、足裏にぬめりと湿りを感じていながら歩いていました。