天啓観測

Hi zombies!

百合の解釈に触れようとして百合の禁忌に踏み込んではならない。


 百合の解釈論争というのはけして最近になって起こったことではありません。これは恐らく誰かが「女と女、尊いじゃん」と思った時から始まる歴史なのだと思います。

 私は比較的リベラルな百合主義者なので、この「女と女、」という関係性を超え、男女の恋愛、はたまた「男と男、」の関係性ですら百合と呼ぶことがあるのです。

 とはいえ、私のこの思想というのはあらゆる百合を研究する上で、なにか一定の思想に凝り固まってはいけないという気持ちが最終的に私をそうしたのであって、なにも誰しもがそうしろと思うわけではありません。しかし、こと最近は、この百合思想解釈の押し付けがましさを感じずにはいられません。

 百合思想解釈の押し付けが最終的にたどり着く場所はどこか。結論から言えばそれは百合観測の共通認識におけるタブーに触れることなのです。

 憲法学者憲法について争うのはなぜでしょうか。周知の通り、憲法に様々な解釈があるからです。では彼らはなぜ争うのでしょうか。いや、どのように争うべきなのでしょうか。

 そう、憲法をよりよく、法治国家における憲法をよりよくするためであるべきなのです。矛盾の多すぎる現行憲法は廃止すべきと言い出す人がいたとしたら、それはやはり禁忌に触れるのです。


 では、百合の禁忌とはなんでしょう。これは我こそは百合豚と言える人間であれば共通の信条のはずなのです。仮に解釈に異なりがあっても、そこだけは死守しようと血眼になるべきなのは、「我々は(自分は)百合に入り込むべきではない」ということのはずです。

 これはいかなる状態であっても、横槍を入れるな、ということなのです。

 なぜ百合解釈がこの禁忌に触れてしまうのか。これはこと二次元ジャンルでは起こりえないことです。何に起こりえるのか。これはやはりナマモノジャンルということになるでしょう。

 実在する彼女たちを見、「百合はこうあるべき」「百合はこうあってほしい」と言うことはまさに禁忌への挑戦に他なりません。なにか別の解釈に押し付けるだけに飽き足らず、そのつもりは無いにしても、本人たちの目に入るようなところで、「自分はそれはなしだ」ということ、それは禁忌に触れるのと何ら変わりないのです。その主人公たる彼女たちの“じゃま”をすることに他ならないのです。

 なにか特別な事象を見、それに誰かが押し付けがましくあるのを見ると、私はヘテロエンドを連想するのです。これは百合作品において最も忌避されるべきことであって、つまりそれは百合解釈論争をする上で最も避けられなければならないことなのです。


 自分にとっての百合を愛する心で、誰かの百合を反駁し、結果として共通の信条を破ることになってはならない。それをゆめゆめ忘れないでいて欲しい。




    百合研究所 新百合ヶ丘駅支部部長 小佐内美星