美波『TURQUOISE2019⇆2020』ONEMAN TOURに行ったか? 私は行った。
美波の曲というのは、部屋の隅っこでりんごをかじりながら聞くもので、けしてみんなでワイワイしながら聞くものではないのだ。
いいですもう。だいすきなアーティストのライブにも行けねえ人生になんの意味があるんだ。CDを買って家で聴くさ。美波の曲っていったらみんなでワイワイ聴くもんじゃなくて、部屋の隅っこでリンゴかじりながら聴くもんでしょ。そうとも。生きるよ。
— 美星 (@AynLDK) 2019年1月10日
と思っていた。実際、今日という日を何よりも楽しみにしながら待っていても、その価値観は拭えず、ライブが始まるその瞬間まで消えなかったのだ。
けれども、美波の楽曲は、どこで聴いても美波の楽曲であった。
ライブというのは、ひとつの音楽体験だったのだ。始まった瞬間に気がついた。イヤホンで聴くのか、それともヘッドホンで聴くのか、あるいはスピーカーで聴くのか、そして、もしくはライブで聴くのか。その一端を担うのみで、けして特別な意味は持たない。
ライブであろうとなんであろうと、楽曲は楽曲で、 1000円のイヤホンで聴こうが50万円のスピーカーで聴こうが、そして4000円のライブで聴こうが、そこにある楽曲の意味はさして変わらず、ただ音楽の体験だけが変わる。
つまり、私はライブ会場で何千人の人々に囲まれながらも、確かに部屋の隅っこでりんごを齧っていたし、美波と二人きりになった。彼女はその歌声で彼女のことを歌い、そして私のことを歌っていただけだった。
ライブというのは何も特別なイベントではなく、個別の音楽体験なのだ。音楽の視聴方法なのだ。隣にいるやつと一体感など持たなかろうと、確かに私は美波の楽曲を、その場で、聴いていた。.
何も不思議なことは無かった。いつも通り受け入れられた。しかし、ライブという環境での音楽体験は、他には代え難かった。その場でのオリジナリティ、凄まじい音響環境、視覚的な感動。これは何にも味わえない。
だからこそ、ライブであればもっと光るだろうというバンドを見る準備が整った。ライブを見に行って、私の知らない曲になるんじゃないかと思っていた美波でさえライブという環境で光るなら、きっと何にでもそう言えるのだろうと知ることができた。
私のライブ処女は美波に破られた。恐らく破るべくして彼女は破った。全身での感覚的な音楽体験は大きな衝撃だった。美波はたしかに私の想像していた表情で歌っていたし、コードチェンジのその指とか右手のストロークとか、そこでしか聴けないオリジナルの歌声であったり、ライブハウスを揺らすBASSであるとか、とにかく注目することだけがたくさんあって、ところどころの演出は映像作品の中に入ったようだった。
プロの世界に入っていたのだ。私は一介のオーディエンスだったけれど、あのときあの感覚を味わったのは私しかいない。指を、髪を見ていた。こんな体験があっていいのだろうかと身体を揺らし目を瞑りながら思った。今でも余韻の中にいる。私はあの二時間の中で、全ての感覚を研ぎ澄ませていた。あの中にいれば私は名文すら書けた。
令和元年の最後の最後、最初のライブ参戦は成功に終わった。
もっと独りよがりな言い方をすれば、美波はライブを成功させた。
私のために。
— 美波 (@osakana373) 2019年12月21日