天啓観測

Hi zombies!

私が本当にそう欲したのか。

 

 私は常に正しい。そう思っている。心の底から自分が常に正しいと思っている。これは人にぶつけるための正しさではなく、私の処世術にすぎない。私は、善きそして正しい者ではないから。ただ自分のために正しい。そうでもしないと最善の人生は送れないのである。明日よりもただこの今が最善であるために、私は心の底から自分が正しいと思っている。ただそのために。私は運命を愛している。運命が愛せない時があろうか。あるのだ。その時、常に他人が関わっている。私の最善に障害があるとしたら、その最大のものは他人だ。人は常に私の手から離れている。私が私にとっての最善を欲するとき、他人は私が思った以外の行動をする。そのおかげで、私の人生は最善から一歩遠のくのである。

 

 いくら運命を愛するとて、人が私から離れていくとき、私が人を好きになったとき、人が私を好きになったとき、人が私を嫌いになったとき、人が私に傷をつけたとき、人が私を快くさせるとき、そのときに、わたしはそれをほんとうにほっしているのか。それを。運命を愛するためのなにかを剥奪していくのがそれであるのに。

 

 極端な解決方法がある。極端な話をしよう。知見に溢れ、その認識の深さによって人にとって好ましい人がいるとして、私はその人のそういう部分に好意を持ち、友人だったとする。しかし、その人が私の友人であるのは、知見に溢れ、認識が深いからだ。もし、私自身が知見に溢れ、認識の深い人間であれば、そいつはもう友人である必要はない。

 

 趣向の合う人間がいる。一緒に音楽を聞くのが楽しみであり、一緒に本を読むのが楽しみであり、一緒に散歩をするのが楽しみである、一緒に酒を飲むのが楽しみである。しかし、私が一人で音楽を聞くことを楽しむことができれば、一人で本を読むことを楽しむことができれば、一人で散歩ができれば、一人酒を飲むことができれば。そいつはもう友人である必要はない。

 

 私が常に高ければ高いほど、周りに人がいる必要はなくなっていく。つまり、私はもはや人が常に私の手から離れていることが重要なことではなくなる。他人が私の葛藤になることはなくなる。そうである。これは事実である。私がそれほど高い人間であればいい。私は常に正しいし、むしろそうあるべきである。

 

 だがそうはいかない。環境が、なにものかが、あるいは全てが、そうあることを否定する。他人は常に私の横にいて、私がそれを愛した途端に離れていく。

 

 一切は回帰する。そのとおりである。しかしそうであるとき、この疑問と葛藤にはなんの意味があるのか。この、人生に対する最大の宣戦布告に、この葛藤は枷にならないだろうか。どちらが枷なのか。葛藤か、永劫回帰か。運命愛か。

 

 私の最善にとって必要な人々が横にいないことを、人が私の思いどおりにならないことを、私は本当に欲したのか。欲しているのか。一切の「こうあった」が、私の「欲した」であるはずなのに、そうでありながら、この葛藤は。

 

 他人は常に思いどおりではない。支配されていない。私の最善の人生の中で、その役割を果たそうとしない。支配されていればいいものを。しかし、それはそうである。人は常に自由であるから。

 

 ああ、いま気が付いた。人は自由であるときが最も美しいのではないか。古い石版を叩いている時が。そう、いま気が付いた。私は自由な人を欲しているのだ。人が私の思いどおりにならないことを、私は常に欲している。それで私が寂しくなることも、そのための犠牲として欲しているのだ。

 

 飛んでいくがいい。

 

 

 

 

 

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