天啓観測

Hi zombies!

批判的哲学的ゾンビ


 哲学には意味と価値がなければ、それは単なる言葉遊びにすぎないのである。人間は何故生きるのだろうという大昔からあるこの問いが意味と価値を持つ瞬間は、意味と価値を探そうと、手にハンマーを持ちながら向かい合ったときである。これに対する答えを、思想を得たときどんな価値があるのか。それについて考えなければやはり言葉遊びにすぎないのである。

 

 なんで生きるのだろう。生まれたから仕方なく。簡単には死ねないから。なにかを成し遂げるため。それを探すために生きる。そう答えようと思えば簡単だが、その答えにあなたはどれだけ意味と価値を見出しているのか。その思考に、どれだけ傾倒できるのか。たとえばそれを、生きる意味を探すために、本当にそのために生きているのか。誰に影響を与えられるだろうか。そう問われて答えに窮すうちは、やはり言葉遊びだ。

 

 

 この世には哲学的(と呼ばれる)思考実験がある。しかし、やはり考えなければならないのは、意味と価値である。ハンマーを持って叩いたとき、意味と価値を虹のようにかけられるかなのだ。世界が五分前に誕生したという認識論になんの意味があるのか。我々の認識が五分前に作られ、偽の記憶さえ五分前に始まったという懐疑主義に、どのような価値があるのか。そうであったとして、あるいはそうでなかったとして、どのような意義が。

 

 

 我々の脳が水槽に漬けられていようとなんであるのか。そうであったとして、そうでなかったとして、我々のこの世界が単に強制的に見せられている幻覚だったとして、だったらなんで  あるのか。我々はそう気づいたとて、生き方を単に変え、なんなら自死まで選ぶであろうか。

 

 

 このような目に見えぬものを想像し、そこから何かしらの批判に繋げようとするのは、カント以降否定されてきた形而上学を混ぜ込んだ無意味な哲学と同様である。

 

 

 しかしどうであろうか。哲学的ゾンビ! お前は。

 

 

 哲学的ゾンビ

 我々と同じような見た目で同じように振る舞い、我々との違いは一切無いように見えるが、実際その脳みそは空っぽで、そこに意識はない。我々がそれについて観測する全てにおいて、我々との違いは一つもない。そういうゾンビのこと。

 

 

 こういう存在について、私は覚えがある。よくある。単なる思考実験に貶めないことができる。意味と価値が、批判があるのである。この哲学的ゾンビは、意識の段階で我々とはとにかく異なるということが想定された存在だが、もっと小さな部分で私はそれに触れることがあるのである。表面的にはなんら変わりないが、とかくその認識において、持つものと持たざるものが存在する、ということが往々にしてありうる。ということであり、そしてそれは他人のすべてである、ということだ。

 

 

 我々はなにか大きな一つの意志に動かされているわけではない。特定の物理法則に従って動いているわけではない。この意識で、認識で、感情で動いているのだ。いるが、その行う動作に大差はほとんどない。大体の人間が寝起きし、食事をし、仕事へ行ったり遊びに行ったりする。隣に立っている。だが、私はその意識、認識、感情にアクセスすることは適わない。そこには、私の認識の外で自動的に人間的行動をするゾンビが存在しているにすぎないのだ。

 

 

 そう、これが本質である。だが、これで話が終わってはこの話に意味と価値は残されていない。物事はもっとミクロだ。個々の認識だ。私の感動する音楽で感動しない者がいる。私の好きな文章を嫌いなやつがいる。私が感動する音楽で同じように感動したものが、まったく想定しない別の場所で感動していることがある。このクオリアの乖離が、それが、私に、その人のゾンビとしての側面を見させるのだ。

 

 

 同じではない、異なっている。まったく同じ素材で構成されていながら、この意識の上で異なっている。同じものを経験しているとき、私の働いている意識が、相手にとって働かない意識であることがある。当然に。このことが重要なのだ。天啓的なのだ。どのみち、そう、どのみち! 理解され得ないのである。共感は磨いても磨いても共感だ。私の経験は、それが見せる世界観は、それが作る認識は、私にしか存在することがない。

 

 

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