執着か慈愛
経験上、身の回りにあるものを異常なまでに愛してしまうということがあるし、それは執着という言葉で表せる気もするし、慈愛という言葉で表せる気もする。行き場のない愛情は私の常の悩みである。(だから持ち物に名前付けたり愛しやすそうな植物育てたりぬいぐるみ買ったりするのかなということにいま気づきました)
その漠然とした愛はだいたいの場合苦痛を生み出す。今これを失ったらとても悲しいということがいつもあってその時は本当に考えるだけでも耐えられないのである。
しかし、不思議なのは、実際に失ったあとでは別に辛さなど微塵も感じないということである。
これは、失う悲しさを想像して恐怖だけが先行しているのか、それとも失った後に防衛本能が働いていて私を悲しませまいとしているのか、それとも…… ということをよく考える。
実際、愛しているなにかを失うというのが、得体の知れなさを纏っている感はある。だか、恐怖が先行して、そうならないでくれと欲する感情が「悲しい」なのか。
防衛本能が私を守っているのなら、それは認識しようもない。
あ、いや、とても弱っているときに昔を、あった物を思い出して、悲しくなるということは、ままあるな。
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