天啓観測

Hi zombies!

おともだち! ――そして流転す。


 臆面もなく私のことを「友人」と言ってくれる人に対して、私は尊さを感じざるを得ない。なぜならその人は、その人の裁量で、私のことを「友人」と呼んでいるから。

 考えてもみれば、私にとってその人は「友人」ではない可能性を孕んでいるのに、それでもやはり臆面もなく言うのなら、なんと素敵な人間だろうかと思うのである。

 その人には、私を友人と呼び得るほどの、好意的な解釈が完成しているのだ。こちらがその解釈を、仮に誤っていようと受け入れる気になって初めて相互に友人となり、良き友人となり得る。


 つまるところ、良き友人とは良き解釈を、私にしてくれる人々のことであると思う。

 であるから、私は意識して、理解し難くあろうとしている。そもそも笑顔を振りまくのは性にあわないし、殊更に胸襟を開いて某はそれこれです、というのははしたなくもあり、また弱みである。人は口を開けば開くほど己の後方にちょうど入りやすい穴が空くのである。

 相手に「私は必要とされている」と思わせてはいけない。理解し難くあれ、というのはそういうことだ。生涯良き友となるであろう人間は、必要とされてなくとも、私に対し好意的な解釈を述べる。その理解し難さにさえ。必要とされて始めて抱かれる好意的な解釈は必要とされなくなった途端に立ち消え、その者は敵にさえ成る。

 その解釈が仮に誤解であっても、それが敵意から来る誤解でなければいい。理解し難くも、理解しようと力を振るってくれる人を、どうしてぞんざいに扱えるだろう。そしてまた、誰にでも胸襟を開くものを信頼してはならない。

 自分の嫌いな者に、それでもいい顔をしようとする者に気を付けた方がいい。
 なんとも思ってない者にいい顔をしようとするものに気をつけた方がいい。
 誰にでも、好ましい相手にするのと同じように胸襟を開くものを、信頼してはならない。

 その人は、理解し難さを認識しないまま、ただ自分の理解し得る、その範囲においてのみ! 好意的な解釈を、あたかも初めて言うかのように述べる。それはちょうど、読む文章に難解なテクストがある時、それを無視して読み進める教養無きものと変わりないのである。

 とはいえ、そういう者、親しみ深い紳士の、その社交は努力と傷の上で成り立っていることを忘れてはならない。彼らは我々とは違う方法で、愚かな方法で、良き友を、上澄みのような友を作ろうとしているのである。

 我々はそれを一歩前から見て、彼の我々に対する解釈を信頼せず、その人にとってなお一層難解であるべきである。親しみ深い紳士が私の難解さに気付く時には、彼は辟易し言葉を失い、一種の絶望を抱くだろう。「自分はなんと明解だっただろう」と。その明解さに付き従う者の浅ましさを知るだろう。


 臆面もなく「友人」と私を呼ぶ者について私は尊さを述べた。友に聞くべきは「お前は私のなんだ」ではなく「お前にとって私はなんだ」である。



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