天啓観測

Hi zombies!

悲劇的な人

 子供は「悲しいもの」を見て、なにが悲しいのかは到底考えない。「悲しい」だけを受け取る。つまり、子供はその裏にある物事の複雑なことは無視して、認識だけで物事を見ているのである。自分がどうであったかを諸君も思い出せば、これは明白ではないだろうか。子供の時の記憶がすべて眩しく、また愛らしいのはこれに起因する。

 そして、その認識はその子供にとっての普遍的な世界観となり、その世界観を持ったまま大人になる。物事の裏は見えるようになってきたが、少なくとも、世界観は子供の頃単に純粋に受け取ったもので構成されていると言ってよい。

 先述したが、子供は「悲しい」を「悲しい」で受け取る。「好ましい」の「好ましさ」を受け取る。そしてそれは世界観となる。つまり、子供の頃に触れた映像・文章・芸術などは、子供の世界観となるのだ。

 さて、人生の主人公は、これは紛れもなく自分である。しかし、この「主人公」という言葉に、人は踊らされ続けてしまう。そう、人生の主人公は確かに自分だが、それが「劇的」であるかはまた別の話なのである。

「主人公は劇的な存在である」というのは、子供の頃に触れた物語によって作られた一種の「世界観」ではなかろうか。すると人は、人生には少なからず一度や二度、劇的なことが訪れる、と思い込んでしまう。

 そして、人は「これはその劇的な事象の一つであろうか」と、人生をそもそも存在するかしないかも分からぬ尺度で計ることになるのだ。それは喜劇であれ、悲劇であれ。

 「少しでも幸せじゃないなら、どうせなら最も不幸でありたい」という倒錯に人が度々陥るのは、これが原因である。劇的な人生に、最も純粋な幼少期から触れてきたために、劇的な人生が自分にも存在すると思い込むのだ。少ない不幸は悲劇的でない。私はもっと不幸だ! と、喜ばれもしないことを叫び始める。自分の生涯が、あの興味深い物語の形になることを期待する。

 しかし、物語の絵空事に心が惹かれるのは、それが絵空事だからである。そしてそれを見て、我々自足感を得るのだ。これが現実に起こりうるとすれば、それは期待が渦巻くひとつの苦痛となる。

 私の哲学では、欲望は批判対象ではい。期待こそが批判対象である。期待はルサンチマンを呼び込む。

 上記のような倒錯は、やはり期待から生じるのである。人生に対する期待からだ。そして、期待は期待から生じる。人生には、そう、人生には。なんら劇的なことはなく、ただ意味も目的もないのである。身体が生きている、だから思考がある。そして認識がある。ただそれだけなのである。物語には偶然がないとはよく言ったものだが、この人生の過程と帰結には、誰かの作為は存在しない。物語的なことを期待すれば倒錯が生まれる。苦悩が生まれるのならよい。それは人をより高次の認識へ連れていくこともあろう。しかし、実態に伴わぬ行き過ぎた期待は、そしてそれがあると信じられている結果に対する期待であれば、人は愚かな道を歩むことになる。単にルサンチマンを呼び込むことになる。より不幸になろうとする。いま一度、この世は無為であり、期待すべきものではないということを知るべきである。

 そのうえで、どう生きるのかを考え直すべきである。無意味であるなら死んでもよいとは、拷問台に乗せられても私は言わない。



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