天啓観測

Hi zombies!

ゾンビ批判 1

 あいつもこいつも、「ゾンビにしては」良かった。この「ゾンビにしては」というのを大切に抱いているべきである。

 私があなたたちをゾンビだと思うのと同じで、あなたたちも私をゾンビとして見てくれればと思うのだけれど、厄介な期待を授けられているのはどうしてなのか。私はゾンビに好かれたくない。好かれたら好いてしまうから。

 ゾンビというのは、良い、悪い、を仲間内で決め、法律として運用することに疑問を抱かないどころか、むしろ悦楽を得る趣味の一種かなにかだと思っている。

 私がゾンビという言葉を使う時、単に大衆のことであると解釈されるのは必ずしも気持ちいいものではないが、だからといって絶対的に異にするわけでもない。大衆もまた私が嫌いなものの一つなのだし、少なくとも私の言うゾンビが分からない人には、そう思ってもらえるのがいいのではないかな。

 物事は全て関連し合っている。なにか小さなことが欠けてさえなにかが大きな変化をするし、加わってもなお同様である。その事は、人の精神や人格についても全く同じことが言えるのであり、つまり、あなたが誰かを好意的に評価したその事は、あなたがその人を嫌悪したとある事情によって作られているのではないか、ということを考えるべきである。
 たとえば極端な例ではあるけれど、あなたが「ユーモアのある人」と評価したその人が人殺しだった時、「ユーモアがあるのに人殺し」だと思うだろうけれど、残念ながらそうではない。「人殺し」だから「ユーモアがある」し「ユーモアがある」から「人殺し」なのである、と想像しなければならない。もちろん、この理屈には罠があるので、聡明なゾンビたちには避けてもらわねば困る。すなわち、対極にあるものが相互に関連しあっている、という話ではないし、人殺しはユーモアがあるという話でもない(あえて喚起することではないと思いたい)。

 コンサートのソロパートの後、観客はただ慣習だけで拍手を送るが、演奏家はそれを一手に自分への賞賛だと思って受け取る。私はそういうのを残酷だと思わない人々に怯えている。

 そういう、相手の感情度外視の、親切と定義されている親切を投げかけるだけで人としての活動が上手くいっていると思っているゾンビ。つまり、ゾンビの道徳とは「自分にとって気持ちよく、その中でも比較的人を傷付けない行為」のことを暗に指しており、それはこの二十余世紀間で終わらせなければならないと私は思う。

 ゾンビたちは自分が如何に低いところにいるかというところで論じ合い、一番低いところにいる者が勝つ。ゾンビというのはウイルス感染の度合いの一形態でしかないし、菌類にとっては落ちるとこまで落ちるのが目的であるからである。しかし、一番低いところを奪われたゾンビたちは、自分たちがまだぎりぎりの位置で人間だということに安心して胸を撫で下ろす。

 最も高尚なゾンビは、最も多くの菌類に感染している。彼らはもう他にゾンビを増やす必要がない。

 ニーチェの言う通り「愛せないのならただ通り過ぎなければならない」が、私はやはり人間のことを愛していたし、単に通り過ぎるには惜しい存在だと思っていた。つまり、ゾンビは通り過ぎるために必要な思想だったのだ。ゾンビであるならば愛する必要もない。ではなぜ通り過ぎず、ゾンビ批判をするのか。
 人類を愛しているから。なのに見るに堪えないから。

 退屈な余暇を経験したことがない人らは、総じて認識の低い傾向にある。たとえば、時間さえあれば両親が遊びに付き合ってくれた人や、退屈を凌ぐ玩具やゲーム、遊びなどに困ったことがない人、土日祝日長期休みには、親族に内外問わず旅行に連れて行って貰った経験のある人たちのことだ。
 思想や思考が、刺激を受けている時に育つはずもない。暇を持て余している時に、刺激的な経験を磨り潰しながら作るのが哲学であり、認識が低いのはそれができなかったからである。
 到底物事に感動する素養を持たない幼少期の内に、この世のありとあらゆる構造を見せられれば、その人はもう生涯何かについて考える必要がなくなってしまうのではないか。というのも、大人の側は、それ(例えば景色や歴史的建造物など)が「素晴らしいとされていること」だと教え込むので、子供は当然に「素晴らしいというのはこの程度のことなのか」と無意識に覚えさせられる。子供にはまだそこまでの認識がないのに。
 つまり子供は、最上の歓びを、低いレベルで認知することになるのである。幸福の上限を限界まで引き下げられる。凡庸さというのはこうして誕生する。

 人生という一度きりの認識の手段の中で、ただ自分で善悪を考慮することもせず、安定に魂を売っているゾンビ。よくあるゾンビ作品の設定――生前の行動を繰り返し続ける――ゾンビは、昨日の行動を繰り返し続ける……。

 ゾンビの持つ「社会的意見」は、矛盾を恐れない。昨日はああ言った。今日はこう言った。明日はまた別のことを、矛盾とも知れずに言うだろう。

「究極の目逸らし」をすることで、ゾンビは死から目を背け続け、実存に向き合うことを否定している。せめてそれさえやめてくれればと思うのだが。

 ゾンビ批判をする時、私が特定の毛嫌いする個人のことを言っている可能性については、もはや否定もしないし、弁明もしない。そういう人種がいなければゾンビ思想も浮かばなかっただろうから。

 とはいえ、ゾンビ思想は私から遠く離れた人を論じているというよりは、むしろ最も近い、最も近いのになぜか接するのに苦労して愛するにあまりある人に向けられている。通り過ぎなければならないゾンビ。通り過ぎなければ身を滅ぼすゾンビ。愛せないなら通り過ぎなければならない、真理。愛する人からも遠ざからなければならない、真理――。

 要は、自分を論理学的な集合の中心と捉えて欲しいのですよ。ベン図を書く。その集合にひっかかりもしない人は当然にゾンビであるけれども、それよりかはむしろ、どこか自分の集合に一部分でも乗っかかっている人々。そして、その割合が大きい人々。これが苦痛だ。その人と私は、そこからそこまで一緒なのに、という不快。快感の多さに辟易する不快。これを理解してくれるのか、そうか、好ましいな、と思ったら警戒せよ。そんなに大切な人でも、重要なところが食い違っていたりする。

 愛とはそういう否定を肯定する行いであると言われるし、たしかに愛を徹頭徹尾行うなら真実だと思う。だが、愛を徹頭徹尾行う理由とは? 自分の中の大切なものを否定されることを肯定したり、相手の中にある不快な肯定を否定することをさらに肯定したりすることの、その行為は、はたして本当に健康的だろうか。ゾンビというレッテルを貼り付けてしまって、どうせ誰にも理解されないと、そう考えてしまうのが何にとってもいいのではないか。そういう考えを根底に持って世界に向き合って、誰もがゾンビだと思い合って生きていけば、私たちは平和に滅んでいけるんではないか。もはや誰も愛さないのが、博愛精神というものではないか。私は誰も傷付けたくないし、私も私で私を傷付けたくない。