天啓観測

Hi zombies!

有事の息苦しさ 神の息吹


 神は死んだ、とニーチェは言いましたが、おおよそその神らしきものはこういった有事に息を吹き返すことがあります。しかしそれは、信仰の対象のとしての神と言うよりは、信じなければならないというような、言わば邪神であり、それならまだそこら辺の神の方がマシだな、と思うのですが。


 ここでいう神とは、集団的な正義でしょう。「神は死んだ、我々が殺したのだ」のコンテクストは、絶対的な指標をなくした人類に対する警告で、要は人は常にルサンチマンに塗れており、そのせいでいつもとにかく信じるものを探している人にとって、神がいなくなるというのは恐ろしいことだ、ということなんですけど、私はそのような人の元に神が現れることこそ危険だと思わざるを得ません。


 こうした有事は、程度に差異はあれ人に息苦しさを与えます。この息苦しさを、人は、伝統的に人のせいにしてきました。隣人を愛せよ、周りをよく見よ、迷惑をかけるな、世間様にどうこう、こう教えられてきた我々にとって、それが成されない状況というのは、人のせいになりかねないのではないでしょうか。


 つまり、そのような要求が出てくる状態というのは、「自分は上手くやっている」という確信があり、それなのにある程度息苦しさを感じるということは、周りの人間のせいなのでは、と人は思うのです。自分はうまくやってる、なのに自分は苦しい。だから周りの人間は自分を虐げている。自分は正しい。つまり周りが悪い。息苦しさから無力を痛感し、無力からルサンチマンが暴走して、ルサンチマンは絶対的な指標を求め正義を大義に振りかざし叫ぶ。


 人は歴史的にそれを繰り返してきました。信じられるものがないから「信じやすいもの」を信じる。よく分からないから「分かりやすいもの」を信じる。この世なんてしょうもない、死んだら同じだというペシミズムに傾倒しながら、その癖に苦悩を受け止めきれず希望を探して一層溺れる。正義はそうして生まれて、この有事における自身の無力は集団となってそのまま正義となり、神のごとく力を振るい、おおよそ自分を虐げていると思われるものを、「信じやすいもの」と「分かりやすいもの」から受け取ったより強い『無力からする意志の歯ぎしり』を、他人に投げつけるのです。