天啓観測

Hi zombies!

翻訳書に対する苦手意識

 ファンタジー的なエンタメならともかく、文学というジャンルになった時に、翻訳書というのがどこまで意味を成すのかということは常々疑問で、つまり文章というのはストーリー的な面白さだけでなく、画期的な表現ありきで評価されるのではないか、という疑問を持っている。
 たとえばハリーポッターは翻訳でもなんら問題がないと思うけれども、ゲーテの詩は日本語で読む意味がどの程度あるのだろう。特に現代ドイツ語のほとんどがゲーテの力によるものだとされている以上、ゲーテの詩はドイツ語で読むのが普通なのでは、ということである。
 単に驚愕のプロットを書くからドストエフスキーが古典作家として名を馳せているのか、単に不思議な世界観を描くからカフカが名を馳せているのか、単に思想的な逸材だからニーチェが名を馳せているのか、というところは注視しなければならず、究極にはその言語のネイティブ話者として生まれなければその感覚はおそらく分からないだろうと思う。
 言語にとってもっとも重要なのはリズムとニュアンスであり、それは赤ん坊の頃から言語に触れなければ到底身につかない。日本語話者は永遠にドイツ語でゲーテを読んでも意味が分からんだろうし、おそらくはほかの海外文学もそうである。
 翻訳された文章を、可能な限り元のニュアンスに近づけるというのは、おそらく翻訳者の方々は注力していることだとは思うけれども、では外国の人がどういう感覚で、そこの言語のその文章を評価したのか、というところと、本当はその言語でしか得られないかもしれなかった感覚が、私たちにはいつまでも不明であるということ。そこに翻訳書に対する微妙な苦手意識、というよりは疑義があり続けている。でも海外小説はめちゃくちゃおもしろいです。