天啓観測

Hi zombies!

このブログは4周年を迎えます。読者の皆にラブレター


 このブログもついに4周年というわけです。言葉は有象無象、文字も腐るほどあります。それを読める形にするのが私の作業であって、なんの疑いも苦労もなくやってきました。

 自分のために書いてきたものですが、4年もやっていると人に読んでもらえて評価していただけるようになります。いくつかの記事は特定のワードで検索するとトップに出てくるようにもなったし、毎月ある程度のアクセスもある。収入できそうなほどにはない。もし収入がしたければこんなブログではだめだから、もっと自己啓発本みたいなしようもねえことを書いた方がいい。だが私は書かなかった。私は誰も書いていないことが書きたかったのです。

 私のTwitterもまたそうでしょう。快活なタイムラインに唯一私の陰鬱なツイートが流れているのを見て、ここだけが血溜まりだと思うことがあります。川に勝手にダムを作っているのです。フォロワー諸兄姉にはご迷惑をおかけしますが、しかしこれが私の生き方なのです。

 その上で、ブログは私にとってそれ以上のものです。私の文章や思想の特徴を知ってくださっている人々が、それでもわざわざ読みに来てくれる場所なのだから、たぶん特別でなければならないし、特別でありたいと思っています。

 私は体系が苦手です。

 たくさんの本を読んでたくさんの知識を身につけましょうと言われる世の中ですが、それを実践していたら、脳内が煩雑な場所になりました。ひとりの人の本を読み続けるのが正しいとは思いませんが、だからといってたくさんの本を読むのも、私には向いていないようです。私は読んだ本の内容が先に読んだ本の内容とどんなに違っていても、すんなりと受け入れてしまうわけです。というのもあって、私には一貫して筋の通った哲学はないし、一貫した真の思想も持っていません。それを体系化することは不可能だし、だから小説を書くのだけれど、小説に書けない、小説のテーマに昇華できない思索もまたあるもので、その発露の場がこのブログでした。

 4年、4年! 私は過去の記事を読むだけで、書いた時のこと、なぜこれを書いたのかということを思い返すことができます。4年分のタイムスリップが私には可能なわけです。独善的で自堕落的な文章の羅列が、当時の私にとっていかに重要だったか。それでいていかにいまの自分を形づくっているか、その「いかに」を語るにはこの記事では不可能でしょう。それは4年間の文章でのみ説明可能なことです。

 あらゆる好きな行いの中で最も好きなのは文章を書くことに他ならないでしょう。それは私のエゴイズムや顕示欲の現れです。「変なやつ」と笑われる時期の方が、人生の中で最も長かった。「変なやつ」と笑われながら人に好かれて、人を好くのが私でした。人が好きでなければ人に見せる文章など書かないでしょう。そういうのを普段はひた隠しにして、皆さんのことを「君ら」とか呼びながら人間嫌いの風を装っているけれど、そう、私と個人的にリプライだのコメント欄だのDMだので話したことがある人は気付いているかもしれませんが、私はなにより人と関わるのが好きで、快活で、交流好きなのです。

 文章を書くというのは私自身に語ることでした。それ以上のものではなかったのに、それをやっていたら、広場にパンをまいたら鳩がやってくる時みたいに、皆さんがやってきてくれたわけです。ああ、撒くのも悪かないな、と思えたのは、このブログを読んでくださる皆さんのおかげであり、小説やツイートを読んでくれる皆さんのおかげでしょう、そう、皆のおかげなんですよ。だからといってあまり調子づかないでくれ。私はお前らがいなくても文章を書くぞ。

 こういうことを! 言うでしょ!? この人は! でもこれ、照れ隠しなんですよ。4年の節目に、たまには自分をメタ認知してもよかろうと思って書いているのです。お恥ずかしい限りですが、なにせ、執筆は人前で全裸になることですからね。致し方ありませんでしょう。いまさら恥ずかしがることもねえでしょうが、皆さんはそんな私を見て、仕方ないなと絹のローブでも掛けてくださればいいのです。私はそれでヌクモリティを感じることでしょう。

 人を愛しすぎると、人が嫌いになります。これは本当です。私は人を愛しているのです。でも嫌いになりたくないから、強い言葉で距離を置くのです。たぶんこのスタンスは変えません。実際、君らのことが嫌いだと書いてる瞬間は君らのことが嫌いだ。ばかめ。滅びろ。

 しかしこういう自白は、敬愛するニーチェにはできませんでした。愛され続けた私にしかできないことでしょう。私はなぜか愛され続けているのです。その「なぜ」が、私が皆を愛し続けているから、なのだとしたら、愛もやり切れたものです。

 さあ、死のう! そろそろ時間だ。死ぬことで生き続けるか、生きることで死に続けるかの二択なのだ。どちらにせよ死んでいるなら心臓は動いている方がいいだろう。私は君たち全員の幸せだけを願っている、願い続けている。私が全ての不幸を背負うことでそれが可能ならそうしたい――しかし前に人にそのように言ったら「そういうのは腹立たしいよ」と言われて、それを言われた帰り道、とぼとぼと歩きながらある程度の改心がありました。天啓観測が行われたのです。私は君たち全員の幸せを願っている、それで、私は最後に幸せになれたらいいなと願っているのです。これは本当に、本当の意味で。どうしたら信じてもらえるか分かりませんが、私は私を肉体的にも精神的にも苦しめた両親や教師、腹立たしい友人たちでさえ、幸せであれと思っているのです。だとしたら、私にいい態度を取ってくれる君たちの幸せを願わないことがどうしてあるでしょう? さて、幸あれ! 美星より愛を込めて、四の区切りにラブレターです。二度とこんな文章は書かねえ。全員くたばれ。