天啓観測

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美星芸術論Ⅰ 退廃概略


 私が芸術において意識しているのは常にその芸術が頂点ではなくどん底を目指しているような退廃的世界観であって、私の書く文章は常にそこを目的としている節がある。しかしどのようにして退廃が行われるかというと難しい。退廃は、進歩なしでは始まらないわけである。

 私がよくやるのは、世間で言われている逆をそのまま言う、ということである。世間で言われている、嫌いな、綺麗な言葉を攻撃対象とする。世界は一歩ずつ前に進もうとするのが自然な態度であるから、それに反旗を翻すのは実に対義語たる退廃の手段といえる。
 たとえば「綺麗な薔薇には刺がある」という言葉を見たら、すぐに「汚い棘には薔薇がある」と変換する。この瞬間、絢爛な薔薇という誰もが好きな主体から、それの有する鋭い棘にピントが合うわけである。

「生きているだけで偉い」とかいうようなごみっかすの意見を見つけたら、「死んだら偉くない」というのが私の言葉の遊び方であるわけだ。

 だがこういう言葉遊びには弱点があって、つまり「逆張りの潮流に乗っかる」点と「あるいは正の言葉の補強となってしまう」点がそれである。後者から説明すると、『千里の道も一歩から』という箴言を見つけて『一歩目なしに千里なし』と言ってはいけない。それを言った瞬間に「一歩目を進め」という強いメッセージが帯びてしまったからだ。これは進歩であり退廃とは程遠い概念である。『千里の道も一歩から』と言われたら『二度と歩くな』と書くのが、私の中では正しい。

 そして我慢ならないのは前者の「逆張りの潮流に乗っかる」ことである。前に進む流れがあれば、同じ数の後ろに進む流れがある。進む方向は違えども、進んでいる時点でそれは進歩だ。流行りもの好きと流行りもの嫌いが世の中にはいる、と言えば伝わりやすいだろう。退廃は、その二つの大きな潮流の中でじっと佇むことだ。

「家族を大切にしましょう」を見つけたら「家族なんか血の繋がっただけの他人だ」と言う人がいて、それはちょうど天秤で釣り合うくらい同じ数がいる。私たち退廃主義者ははなにをすべきか。簡単なことである。



 ''その場に至っては、もはやなにも言わない''