天啓観測

Hi zombies!

音楽は人間が知覚しうる唯一の死である。


 音楽が意味を成す瞬間。「あ」と書いてある紙を意識する。その紙それ自体に意味は生まれただろうか。これと同様に、ただ五線譜に丸を書き入れただけでは音に意味は発生しない。音に意味が乗った瞬間のことを音楽化というのである。

 「あ」と「い」が書かれた紙にはどれ程の意味が乗ったか。「愛」「藍」「哀」、想像しうる意味はいくらかあるが、想像しうる意味が多すぎ、その形は判然としない。つまり、五線譜にCとEが書かれただけでも意味は無い。

 では、どれほどの文字を書き足せば、音楽化が起こるのか。始まりと終わりが想起された瞬間である。生と死が同時に発生した瞬間である。

「愛ゆえに愛さぬ憂に乗じつつ所狭しとそこはかとなく」「藍色にくすんでしまった翠色の髪の毛」「アイス、溶ける」

 一つ目の文は、読み上げることで五七五形式の文であることが判明する。二つ目の文は、最後まで読むことで形容詞の付いた名詞だと判明する。最後の文は、主語と動詞の関係で、動詞が終止形で終わっているために、それで終わりの文だと分かる。

「あい」と書かれた紙が、意味を成す瞬間。それは着地点が見えた瞬間であり、着地点が存在すると補償を与えられた瞬間である。「あい」が終わりか始まりか、果ては中途か判然としないその間、音楽はもはや存在していない。文章もである。ただ単語が、名詞とも動詞とも取れぬ小さな単語が、ふわふわと浮いているに限られる。

 さて、これは人々の経験に委ねられるが、音楽を小節の途中から聴いたことがあるだろうか。音楽を小節の途中から聴くと、それはただ意味のない音の羅列になっていることに気が付く。リズム、調も不明で、音の粒はまばらで、これは十分知っている曲についてさえ、同様の現象が起きる。この事には大きく音楽の時間性が関係している。

 ある朝目覚めたとして、朝か夜か判断が付くのは太陽の光によってだ。しかし、遮光カーテンで閉ざされた部屋では、太陽の光という時間性は届かず、自分がいまどこにいるのか、そして何をすればいいのかが分からない。少なくとも、寝ていたという過去しか判明していない。

 これは一日のほんの数分の例だったが、人生全体においても、例えばRPGの世界にゲームプレイヤーとして参加する時に、主人公がどんな過去を送り、今どういう状況であり、これからどうするのか、ということを知らない、あの浮遊した自我の状態を意識してほしいのだが、今の自分自身というのは、やはり過去、現在、未来の直線上にいるから自分自身で了解されているのである。音楽を小節の途中から聴くというのは、つまり、現在・過去・未来に対する、存在の了解が足りていない状態を知覚しているということである。
 さて、音楽を聴く場合、始まりからであることが普通である。その場合、過去は存在せず、現在性と未来性のみが獲得されている。音楽が開始されれば現在性は右に動き続けるために、過去と未来は反比例的に増減する。音楽体験とは、終了が見えている時間体験なのである。とはいえ、音楽がいつ終わるのかは、分からないわけだが。

 人は今まさに聴いている音を、過去に獲得した音に担保されながら理解する。そして、未来に聴く音への覚悟をする。つまり、過去、現在、未来が、同時に現在に収束している。音楽には過去性と未来性は存在するが、それは現在聴いている音楽を理解するための究極的な要素にすぎない。

 そして音楽が終了する時。これは全ての時間が過去に収束する。現在聴いている音は一つもないからである。ただ過去に聴いた音だけが残り続け、これから先は何も無いということが証明されている。ただ、過去の、あったことの了解のみがある。

 これは、音楽の死であると同時に、人が内面的に知覚しうる、時間の観念的なものであり、あらゆる時間的なものと区別できるものでもない。

 音楽がいつ終わるのかは分からない。そう上述したところではあるが、これはまさに生き死にと同様である。人は死を了解しつつも、それがいつ訪れるのか分からないために、未来を覚悟しつつ、現在を行き、過去の了解をする。過去にあったことを自分のものとしながら、現在を生き、未来に向け自分の身を倒していく。音楽とは、唯一人間が知覚しうる生き死にである。